Fairy Tale ６
最近、シンが出て行くことが多い。
アスランは一人、シンの作ったぼろ切れの寝床に横たわり、暗い岩の天井を見上げていた。
冬が近くて、気温が低い。
傷が疼いて、少し、堪える。
シンは、近衛の
国境まで、行っているはずがない。彼はきっと、それだけあればアスランのいた、紛争の絶えなかった北の国境まで往復できるだろうが、人間は馬に乗ってもそうはいかない。
内乱でも、起きているのだろうか。
思ってから、緩く首を振る。
それはもう、アスランには関係のないことだ。
シンが、無事でさえいればそれでいい。
無事で、帰ってきてくれさえすれば。
いや。
ここに、帰って来なくても。
・・・・むしろ、帰って来ない方が。
アスランは、唇を噛む。
動かない右手を、見下ろす。
彼の牙が、ここに食い込んだ瞬間を思う。
あの時感じたのは、不思議と恐怖ではなかった。
あったのは、ただ、直接的、肉体的な苦痛と、深い安堵。
これで、終われるのだ、と。
この痛みで、もう、終わりにしてもらえるのだ、と。
そうして今は、別の意味を持つ。
今はもう感覚のない右腕から、気温の低下と共に、また鈍い痛みを訴えるようになった肩へ。
肉を裂き、骨を折り。順に、噛み砕かれるさまを想像する。
できれば、そのまま一息に首を噛み切らないで、手足の先から順に、食べてくれるといい。
彼の牙が、自分の肉に食い込む瞬間。
その甘い苦痛を。
その幸福を、アスランは夢想する。
彼に屠られ、彼とひとつになって。
彼の語る美しい湖のほとりを、共に駆けるのだ。
それはなんて、甘やかな夢。
でも。
それを言えば、きっとまた彼は泣くだろう。
そうして、また、怒るだろう。だからアスランは言えない。
たった一つの願いを。
『俺を、食べてくれ』
絶望とは、たったそれだけの願いすら、許されないということ。
シンは、アスランを食べてはくれない。
ならば、アスランの望むことはただひとつ。
シンに、幸福を。
この暗い洞窟の中で、アスランはとても幸福だけれど。
シンは、少しも幸福ではないから。
種は蒔いた。
彼は、賢い。
かわいそうだが、彼の妹は、きっともう、生きてはいないだろう。
それを確かめて、それで・・・・
かたり、と、遠くで音がする。
ああ、また帰ってきてしまったのか。
帰ってきて、くれたのか。
ここへ。
もう一押し、しなければいけないのだろうか。
辛い腕を上げて。
彼の背中を。
くるくると、シンの喉が鳴っている。
彼は、お腹いっぱいアスランを『食べて』ご満悦だ。
体を綺麗にしてやって、水をたっぷり飲ませてあげて。
食べるものをあげようと思ったら、「いや、いいよ」と断られて少ししゅんとしたけれど。それでもアスランがやさしく左手で抱いてくれたから、たちまち忘れてご機嫌になった。
「ケルベロスって、喉、鳴るんだな」
「決まってるだろ」
「いや、見た目が犬に似ているから」
「犬は鳴らないの？」
「あまり聞かないな。猫は鳴るらしいが」
「ふぅん。でも俺、犬でも猫でもないし」
「そうだな」
少年の腕に抱かれ、そのぬくもりを感じて。
アスランは、彼の言葉に注意深く耳を傾ける。
「ああでも、父さんはあんまり鳴らさなかったかも。母さんと・・・妹はしょっちゅう鳴らしてた」
夢見るような、少年の赤い瞳。
「マユは、さ、ちょっと耳の後ろとか舐めてやると、すぐにくぅくぅ言うんだ。可愛いんだ」
「そうか」
そうだ。
今。
「会いたいな、俺も。お前の妹に」
「俺だって・・・会いたい」
しゅん、と、シンの声がしおれる。
「ああ、会いたいな」
「うん・・・」
俯いた少年。
蔭る瞳。
その、深い赤に見惚れ。
アスランは、シンの喉元にキスをした。
小さな慰めに、シンも、やさしいキスで応えた。
次に、彼が出て行く時。
思いつめた瞳に、いよいよかと思った。
確かめて、そうして。
そのまま、戻って来なければいい。
ここは、都の中心。
兵も多い。
戻って来れば、逃げ出すのは困難だから。
戻って来なければいい。
戻って来るな。頼む。
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戻って来て戻って来て戻って来て |
頼む。
お願いだから。
そうして。
シンは、戻って来なかった。